フィギュアペアの井上怜奈
2006年 02月 13日
なんともドラマティック。
体は大丈夫なんだろうか。
この人たちなら、持てるすべてを出し切れる、そんな気がする。
がんばって!!
体は大丈夫なんだろうか。
この人たちなら、持てるすべてを出し切れる、そんな気がする。
がんばって!!
asahi.com: やり遂げる約束の12年 フィギュアペアの井上怜奈-トリノ五輪
父の死、自らのがん、米国籍取得。フィギュアペアの米国代表、井上怜奈(れな)(29)にとって重く、長い日々だった。リレハンメルから12年。日米両国で3度目となる五輪の舞台が、幕を開ける。
「お父さん、行ってきます」
米国・カリフォルニア州の自宅で、怜奈は父・雅彦さんの遺影に声をかけ、トリノへたった。
千葉県松戸市で暮らしていた3歳10カ月のときに、ぜんそくをなおそうと始まったリンク通い。雅彦さんは、仕事帰りに毎日、一人娘の練習に付き添った。衣装を着せ、髪を「おだんご」に結った。
「才能はないが、努力する才能ならある」
そうコーチに言われた怜奈は黙々と練習を続け、小学6年で3回転ジャンプを跳んだ。
92年、ペアでアルベールビル五輪に出場。94年にはシングルでリレハンメル五輪に出た。だが、結果は残せなかった。
長野五輪に向けて練習をしていた96年、雅彦さんは肺がんを宣告された。ある夜、枕元で怜奈に言った。
「お父さんは時間をかけて怜奈を大人にしたかった。でももう時間がない。急いで大人になってもらわないといけない」
怜奈を無理やり米国へ送り出した。
だが、長野の代表選考で落選。その後の国際大会を棄権しようとすると、雅彦さんは言った。
「いい加減な演技をしたら、見に来たお客さんや、選ばれなかった選手に申しわけがない。全力でやり遂げるまで絶対に帰ってきてはだめだ」
97年2月。雅彦さんは逝った。46歳だった。
父の死後、米国へ戻った怜奈は体調不良を訴えた。肺がんだった。
抗がん剤治療を受け、吐き気やむくみに耐えてリンクに通っていたある日、ペアのパートナーを求めてジョン・ボルドウィンが会いに来た。
「私、がんなの。再発したらあなたの時間まで無駄になるから」
だがジョニーは食い下がった。「元気なうちだけでもいいんだ」
心を揺さぶられた。
ペアを組んだばかりのある大会で、ジャンプを失敗したジョニーが、途中で演技をやめ、リンクを離れたことがある。
「失敗しても最後まできちんと滑らなくちゃ」
雅彦さんに言い聞かされた言葉を伝えた。
03年、怜奈は練習直後、意識を失って倒れた。卵巣破裂。手術室に運ばれる間、ジョニーはずっと手を握り、付き添い続けた。
五輪ではペアは同じ国籍でなければならない。出場をかけ、米国籍を取得して臨んだ1月の全米選手権。二人は劇的な逆転優勝を果たした。
「どんなときも、私にはスケートがあった。人生のすべてを教えてくれたのがスケートでした」
11日。トリノの氷上で舞う。母の玲子さん(54)に見守られ、父の思い出を胸に抱きながら。
by green_ice_0331
| 2006-02-13 21:07
| トリノ五輪