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by green_ice_0331
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教祖の娘たち、その後。

スクラップのみ。非公開とする。
アーチャリーも二十歳すぎか。
ずいぶん、普通のお嬢さんのようだ。事件・裁判で大騒ぎしているときはアーチャリーまで憎らしげだった。今思えば小さな女の子だったのに。
学校がどこも受け入れてくれなくて、さすがにひどいと思ったものだった。
異常な環境で育った子であればなおさら、きちんとした教育を施すことが大事なのに、世間の大人たちは背を向け、石もて追った。
それから時々見かけた「アーチャリー」の記事の真偽はどれほどのものだったのだろうか。
彼女は世間から疎まれた少女として記憶に残っている。
偏見だ。この手の偏見は、開き直ることさえ許されない。子供をいじめてしまったのだから。
麻原被告の娘2人が語る

麻原被告の娘2人が語る
 かつて「アーチャリー」と呼ばれた三女も二十歳を過ぎた。地下鉄サリン事件などで一審死刑判決を受けた後、公判が開かれないまま控訴棄却されたオウム真理教元代表麻原彰晃被告(51)=本名・松本智津夫=の娘たちは、事件の解明へ「父に真実を話させて」と、拘禁による精神障害といわれる被告の治療を訴える。教祖の家族であること、入学拒否、生活の現状などを二女と三女が語った。 (坂本充孝)

 待ち合わせた都内の法律事務所へ、三女は白っぽいスーツに栗(くり)色のショートヘアで現れた。イヤリング、ネックレス、指先はピンクのマニキュアが光り、すっかり大人の女性だ。今は大学で心理学を学ぶという。

 二女は妹より少し大柄で長い髪。メガネをかけ、「風邪をひいた」と白いマスク。「いまは引きこもりのような状態」というが、目は人なつっこい。

 一九九五年に麻原被告が逮捕された後、二人が父親と初めて接見したのは九年余りが過ぎた二〇〇四年秋だった。以来、二十-三十回の接見を重ねた。

 三女「最後に会いに行ったのは三月二十二日です。意識的に『お父さんっ』『尊師』『パパ』とかいろいろ呼びかけても、全く反応しない。一緒に接見した弁護士さんは、娘なら父が少しは反応するかもと期待したみたいです。でもダメでした。左目の義眼ははずされて、右目も白濁していました。少し黙っていると、看守が『話をしないんですか』『もういいですか』とせっつくし、弁護士さんも『こりゃ変わらないな』『つらいよね』と。接見が可能になったころは、うれしくて週に二回も会いに行きました。弟を連れて行ったこともあります。でも、ずっとこんな状態です」

 ■あの鑑定書はウソばっかり

 被告の訴訟能力については、弁護側は関西学院大の野田正彰教授をはじめ六人の精神科医が面接し、うち五人は拘禁反応が出て「治療を要する」と診断した。一方、東京高裁が依頼した精神科医は、被告の訴訟能力を認める鑑定書を出していた。

 三女「あの鑑定書は本当にウソばっかり。『食事をこぼさずに食べた』なんて記述がありますが、父は目が見えないので、もともと食事はこぼしました。胸にバスタオルを巻いて食事をしていたぐらいです。『飯を一粒も残さず食べた』なんて、できるわけがない。すべて拘置所のウソの報告を基にした判断で、医者が自分で見た事実は何もありません。見られる立場にあるんだから、実際に食事をしているところを見ればいいと思います」

 東京高裁が三月末、実質審理をしないまま控訴を棄却したことに対し、弁護団は異議を申し立てている。

 二女「適正な手続きを裁判に求めているだけなんです。父の精神の病気は治療可能だというお医者さんもいる。せめて治療を受けさせてもらい、自分で言葉を話せるようになって、裁判を受けさせてあげたい」

 三女「娘としてはモノも言えない状態でも同じ世界に父が生きていることがうれしい。ただし、事件の被害者の方が苦しんでいらっしゃいます。その事実は重く受け止めています。表現する言葉が見つかりません。『殺生はいけない』と言っていた父が、本当に事件の指示を出したのか。もしも、その通りなら、なぜなのか。父の口から話してくれないと事件の真相も解明されないし、私の気持ちの整理もつかないんです」

 子供たちは教祖の家族であることを望んで生まれてきたわけではなかった。
 二女「父は、私が小学校に入るころには、もうひげと髪を伸ばして麻原彰晃になっていました。それが恥ずかしくて仕方がなかった。でも何となく父の職業は『宗教家』だとは思っていました」

 三女「私も紫のクルタ(修行服)を着せられて、こんな格好でレストランに入っていいのかなって。知らない人からアーチャリーと呼ばれるのは嫌でした。父から後継者と言われたこともありますが、ほかにもそう呼ばれた人はいるし、私も小さなころに、たった一度言われただけです」

 一九九五年の地下鉄サリン事件など十三の事件で麻原被告は死刑判決を受けた。一連の事件での死傷者は五千人を超えるとされる。十二人の弟子たちに死刑判決が出て、それが確定した弟子もいる。

 二女「父は、もともと父性の強い人ですが、逮捕される一、二年前から急に優しくなった気がします。何かに絶望しているようでもありました」

 三女「(小学校高学年だった当時)父が非難されるのは悲しかった。世間のイメージと実物とがあまりに違うので、麻原彰晃被告という人物は別人のような気もしていました。私とアーチャリーも別の人間でした」

 両親の逮捕後、三女は小学校、中学校には通えなかった。

 三女「最初は富士宮(静岡県)にいるとき、学校に行きたいと言ったら『引っ越したらね』と言われて楽しみにした。ところが、いわき(福島県)の中学に転入手続きをすると大騒ぎになり、入学には一カ月の観察期間が必要だと言われて。地域の人まで私を見に来るってことでした。結局、あきらめて、勉強は小学三年生から通信教育を続けました」

 「悲しかったのは、アルバイトでテレホンオペレーターをやった時で、時給七百五十円がやっと九百円に上がりそうで楽しみにしていたら社長さんから電話がかかってきた。『アーチャリーに似ているという人がいる』って。それでクビだもん。なんとかお金をためて、姉の旅費まで出してカナダに行ったら、週刊誌に『アーチャリーが大名旅行』って書かれた。外国へ行くと解放されて祖国へ帰ったような気持ちになりますけど」

 母親は二〇〇二年に刑期を終えた。娘たちは、オウム真理教(アーレフに改称)とは距離を置いている。内部対立が続く教団は、上祐史浩代表(43)が早ければ七月をめどに、脱会して新たな宗教団体を立ち上げる意向だと報じられた。

 二女「インターネットで見て初めて知りました。へーって感じ。よその世界の話としか思えない」

 三女「信者はみんなお金もないし、将来の保証もなく、どうするのかな。道で偶然出会うと、涙ながらに寄ってくる昔なじみの信者さんもいます。でも私が教団へ出入りしたら大騒ぎになってしまう。背を向けて暴露本を書く気もないけれど、今のまま距離を置いていきたいです」

 ■将来の夢も話せば終わり

 二女と三女が並ぶと、おしゃれでしっかり者の妹に、面倒見のよい優しい姉といった印象だ。三女が合格した大学から入学を拒否(その後、現在通う大学へ入学)されたのをはじめ、さまざまに受けた差別も二人は屈託なく話した。

 三女「大学に入る前は、将来の夢も考えていたけれど、今は流されればいいかなと。もしも私が『××になりたい』と話して記事になると、その時点で、そうした業界の人たちは警戒してしまう。いつも、そこで終わるんです」

 <デスクメモ> 誰かがいても、いなくても「うーうー」と言うだけの麻原被告。病気のふりかどうか素人にはわからない。ただ「狂人のまねだとして大路を走れば、狂人だ」(徒然草)と兼好法師も言う。早く治療すべきだった。残忍な事件が真相不明では悔いが残らないか。被害者、社会、そして教祖の娘さんにとって。 (学)

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by green_ice_0331 | 2006-05-12 17:19 | 記事スクラップ